昔、船橋市に太宰治が住んでいたということを偶然知った。
とある船橋市の歴史散策のツアーに参加した際、
船橋大神宮に向かう途中、ガイドの方が、
「今日のコースの予定にはなかったのですが、
この近くに、太宰治が住んでいた跡地の記念碑がある」
と言った。
太宰治といえば、「走れメロス」「人間失格」など読んでいない
方でも、名前は知っているくらいの有名作家である。
太宰治が船橋に住んでたなんて!
気になった私は「見たい見たい」とガイドさんにわがままを
言ったら、結局グループで見に行くことに。
場所は住宅街ということで、お静かにと注意され案内された。
行ってみると、確かに「太宰治旧宅跡」の説明版がありました。
昭和10年7月1日、26歳の時に杉並から移り住んで、東京の
病院に移るまで、1年3ヶ月いたという。
そういえば、ここに来る前に、九重橋を渡った際、欄干に
太宰治のレリーフがあったけど、なんでだろうと思ってましたが、
今思えば、近くに住んでいたことについての伏線だったのかも
知れません。
近くに住んでいるにも関わらず、太宰治が住んでいたなんて、
全く知らなかったので、急に興味が湧きました。
旧宅に関連して、当時住んでいた時に植えられた夾竹桃が、
中央公民館の敷地に移植されていると知り、見てみることに。
こちらは、何度も行ったことがあり、何度も目にしてるはずなのに、
まさか太宰治がらみとは思っても見ませんでした。
案内板で太宰が植えたけど、手放さなくてはならなくなった
辛さを知りました。
(『めくら草紙』の中で、
隣の家から夾竹桃を譲ってもらうエピソードが書かれています)
そんな思い入れいっぱいの夾竹桃がこうして
現在も残っていたとはびっくりでした。
他にも船橋での太宰治縁の地として、「玉川旅館」があります。
私はご縁があって、玉川旅館の宴会に参加したのですが、その時に
観光マイスターの海老原さんがいらっしゃり、太宰治が執筆のために
泊まった、「桔梗の間」という部屋を案内していただきました。
迷路のように広く長い廊下を歩いていくと、
細い廊下の奥に「桔梗の間」の戸がありました。
中に入ると、思ったより広かったです。
「この机で作品書いてたのか」と
思うとちょっとテンション上がりました。
宴会後、帰る際に敷地内にある狐の像のことも教えてもらいました。
この狐像は「御蔵稲荷神社」のものといわれていて、
『晩年』という、太宰最初の単行本の口絵写真の
中に登場しています。
(わかりやすいように、蛯原さんが写真を持ってくれました)
お陰さまで楽しい宴会となったのですが、残念なことに
玉川旅館は閉館してしまいました。
取り壊されて、更地になったと聞いたときはショックで
見に行けなかったのですが、暫くすると、マンションが建ち、
併設の公園内に、玉川旅館の案内板が出来てたよと、
船橋市のイベントで知り合った方から、教えていただいたので、
行ってみることに。
行ってみたのですが、マンションが思った以上に大きくて、
玉川旅館が有ったとはとても思えないような風景になってて、
この辺で場所合ってたよな?とちょっと不安になりました。
マンションを越えたら、左手に公園が見えました。
中には確かに玉川旅館の案内板がありました。
これを見て、玉川旅館の事、忘れ去られることはないなと、
少しホッとしました。
しかし、文化財として残すって言ってたのに駄目になり
狐像も行方不明とやはり残念でなりません。
いろいろな思い出足跡巡りもこれで終わりです。
正直、船橋に住んでいたということを知る前までは、
走れメロスくらいしか読んだことがなく、
これを機に他の作品をいくつか読みましたが、
作品の好き嫌いは置いておいて、
太宰治が船橋に住んでいたことがあるんですよって、
もし学校で教えてくれたらどうだったかな?
という思いがあります。
私の周りで、太宰治が船橋に住んでたこと知ってる?
と聞くと知らなかった人がほとんどです。
小学校時代に聞いたとして、
どこまで興味がわくかはわかりませんが、
こんな有名人がいたんだぜって学校で教えることって
良くないんでしょうかね。
最後に太宰治は『十五年間』という作品の中でこんな言葉を残しています。
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
先の夾竹桃のことなど、
船橋に住んでいた時の思い出が記されてますが、
この十五年間というのは、
青森津軽から上京してからの十五年間ということです。
その中で一番良かったのは、
1年3ヶ月間住んでいた船橋だったということになります。
船橋市民として嬉しい言葉ですが、
とにかく太宰治が船橋に住んでいた!って
事を知っていただきたく、長々と語りました。
ありがとうございました。