麻賀多神社から佐倉市立佐倉小学校の
ある方へ向かって、甚大寺に行きました。
道すがら、気になる和菓子屋さんがあったので、
寄ってみました。
歩き疲れて甘いものでもと思っていたので、
お店で食べて良いか聞いたら、大丈夫というので食べました。
しっとりとした甘さがとても良かったです。
お店のおばさん曰く、
「アド街ック天国で紹介された時は、
お客さんがいっぱい来てくれて大変だった」
と嬉しそうにおっしゃっていたのが印象的。
「佐倉城址公園の桜も綺麗よ」と
春の佐倉もいいってお薦めされました(^_^)
お店を後にして、さらに歩いていると、
「高札場」がありました。
江戸時代の掲示板といったとこでしょうか。
こういうものが町の中にあるっていうのが
歴史の勉強になっていいなと思います。
と言ってるうちに、甚大寺に到着したのですが、
寺名石柱を見てビックリ!
お寺なのに「金比羅大権現」と彫られている!
これは、寛政年間(1789~1801)に
佐倉藩主、堀田家6代・正順(まさあり)が、
金比羅大権現を四国から勧請したことに
よるものです。
毎月10日には、金比羅大権現の
招福祈願の縁日が開かれてるそうです。
お寺で、金比羅大権現って文字を見ると、
なんだか神仏習合が残ってるような
気がして不思議な感じです。
境内に入ると目の前にはお堂が
見えるのですが、パッと見た感じ、
屋根の木枠と言えばいいんでしょうか?
オレンジ色が非常に鮮やかで、全体的に
シュッとした趣があります。
お堂は、明治の火災で焼失してしまいますが、
昭和36年(1961)成田市にある
滑川龍正院(阪東28番札所)から
同寺の境内仏堂を移築したものです。
(滑川龍正院には、国指定重要文化財の
仁王門があるというので、そちらも行ってみたいと思いました)
お参りをして、お堂の右奥にある庫裏にて、
御朱印をお願いしました。
では出来上がりまで由緒でも
元和元年(1615)天海大僧正により山形城下に、
天台宗比叡山・延暦寺の末寺として創建したのが始まりです。
元禄14年(1701)山形城主・堀田家3代正虎が
開基となり、12世秀鏡法印が中興しました。
しかし、延享3年(1746)に
堀田家5代・正亮(まさすけ)の
佐倉城主への転封に
伴い現在地に移転することに。
御本尊は堀田家最後の藩主である
10代・正倫(まさとも)の
念持仏である、十一面世音菩薩です。
御朱印が書きあがりましたので、
拝受いたしました。
そういえば、甚大寺は佐倉藩主歴代の菩提寺
なのですが、庫裏の奥にお墓があるのは見えたのですが、
御朱印のお願いで頭がいっぱいで、お参りは
失念しておりました。。