休日出勤の昼休みに職場(新橋)の近くを散歩。
ふと、いつもとは違う道を歩こうと、
愛宕トンネルを抜けて、曲がったことない
右方向へ行って見たら、
杉田玄白の墓と刻まれた石柱がありました。
「えーっこんなところに杉田玄白の墓があったんだ!」
気分転換にプラプラ散歩してみるもんです。
こういう発見がたまりません。
「しかし、御朱印はあるのだろうか?」
御朱印帳を持っていなかった森は日を改めて、
参拝に行くことにしました。
杉田玄白の墓がインパクトあって、お寺の名前とか
確認してなかったですが、こちらは栄閑院という、
浄土宗江戸四ヶ寺の一つ天徳寺の塔頭として、
寛永年間(1624~1643年)に、久蓮社俊誉園應和尚に
よって開山されたお寺です。
ちなみに、天徳寺は当寺から数百メートル
離れた所にあります。
表札には「猿寺」の文字がありました。
諸説あるようですが、有力なのは、
猿回しに扮した盗人が寺に逃げ込んだ時に、
和尚に説教されると、改心して諸国行脚に旅立つと、
残された猿は寺で預かることになるのですが、
この猿が人々に芸を見せると、たちまち人気者となり、
その評判から「猿寺」と呼ばれるようになったと言うもの。
手入れの行き届いた綺麗な境内には、
人気者の猿のものでしょうか、
猿塚がありました。
《水子地蔵尊》
《福禄寿》
本堂へ向かうと、参道の両脇に猿寺らしく、
猿の像がありました。
本堂の柱にも猿があしらっています。
(後で知りましたが、屋根の上にもあるようです)
本堂にて参拝後、杉田玄白の墓に行きました。
本堂右手の案内に従って、奥へ進むとありました。
杉田玄白といえば、
解体新書の翻訳として有名ですね。
解体新書の原書「ターヘル・アナトミア」は
人体の内部構造について大変正確に書かれた本でした。
これを早く日本人医師に紹介したい。と思った
杉田玄白は、豊前国中津藩の藩医で蘭学者である、
前野良沢らと一緒に翻訳に励みました。
けれども、玄白はオランダ語があまり得意ではなく、
翻訳はもっぱら前野良沢がしたと言われています。
(ちなみに、原書はドイツ語で書かれたものですが、
玄白が手に入れたものは、その本のオランダ語訳の
ものでした)
全部の語彙が訳せなくても、
大体の意味が分かれば良しとする玄白と、
人体の命に関わることだから、
正確を期したいと考える
良沢との考え方の違いもあり、
翻訳は難航しますが、
安永3年(1774)約4年かけて、
解体新書が翻訳出版されました。
しかし、訳者として杉田玄白の名前はあっても、
前野良沢の名前はありませんでした。
完璧主義ゆえ、不完全な翻訳に不満があり
記載を断ったのではと言われていますが、
この結果、杉田玄白の名は広まり、
医者として、また後進の育成として、
医学塾(天真楼)を開くなど、
目覚ましい活躍をします。
かたや良沢は、人との交流を避け、
蘭学の研究に打ち込み、
娘婿の家にて享和3年(1803)11月30日に
81歳で亡くなりました。
玄白は文化14年(1817)4月17日に
85歳で亡くなります。
墓石には九幸(9つの幸せ)と刻まれるほど、
充実した人生を送ったようです。
どちらが幸せだったのかわかりませんが、
自分の生き方を全う出来れば、
それが幸せなのでしょう。
御朱印は、本堂左手の庫裡にて拝受いたしました。
右上の印がポイント。
しっかりアピールしてるんだなあって思いました。